「日本巫女史/第三篇/第二章/第三節」を編集中
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ただ、更に一歩をすすめて、何故に禰津村に市子が土着し、然も斯うした大規模の巫女村を構成するに至ったか、それが判然せぬので、多少苦しんでいたところ、学友樋畑雪湖氏が此の事を聴かれ、同氏の親友である、上田市の先輩で、且つ江戸軟文学の研究家として令名ある飯嶋花月氏に、此の間の事情を文通せられたので、飯嶋氏から返信を得たとて私に示された。私はこれに由って、禰津村の由緒と、此処に市子の土着した事情が判然し、更に同氏の高示により、「本道楽」にて、禰津村の巫女の鼻祖となった千代女のことも釈然して、日本一の巫女村の消長をやや明確にするを得たのである。 | ただ、更に一歩をすすめて、何故に禰津村に市子が土着し、然も斯うした大規模の巫女村を構成するに至ったか、それが判然せぬので、多少苦しんでいたところ、学友樋畑雪湖氏が此の事を聴かれ、同氏の親友である、上田市の先輩で、且つ江戸軟文学の研究家として令名ある飯嶋花月氏に、此の間の事情を文通せられたので、飯嶋氏から返信を得たとて私に示された。私はこれに由って、禰津村の由緒と、此処に市子の土着した事情が判然し、更に同氏の高示により、「本道楽」にて、禰津村の巫女の鼻祖となった千代女のことも釈然して、日本一の巫女村の消長をやや明確にするを得たのである。 | ||
然るに、更に今度は「長野新聞」で明治四十一年一月廿日から同廿五日まで、此の村の巫女(前に載せた記事に引続いているが、標題は異っている)を書いた記事の謄写を、同社記者伊勢豊氏から恵贈を受けたので、ここに充分なる資料を得て、此の稿を起すことが出来たのである。執筆に際し、此の事を明記して、私のために配慮された各位に感謝の意を表する次第である。猶お此の記事は文体を統一する必要と、資料を按排する関係から、私が随意に書き改めたものであるが、その出典は記事の終りに註として附記した。 | |||
'''一、名族滋野氏の末路と巫女頭''' | '''一、名族滋野氏の末路と巫女頭''' | ||
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ノノウの収入は、決して少いものではなかった。旅に出て、一回どの位の礼金を取ったものか、それは正確に知ることは出来ぬけれど、彼女たちの一年間の生活を、優に支えて往けるだけの費用を得たことだけは事実である。従って、彼女達は、村人の生活としては、驚くほど贅沢であって、食う物も、着る物も、山家には見られぬほどのもので、冬中は毎日遊び暮していた。これは旅に出る身とて、<ruby><rb>旅籠飯</rb><rp>(</rp><rt>はたごめし</rt><rp>)</rp></ruby>に馴れて口が驕り、衣服も華美を好むようになったためであろう。 | ノノウの収入は、決して少いものではなかった。旅に出て、一回どの位の礼金を取ったものか、それは正確に知ることは出来ぬけれど、彼女たちの一年間の生活を、優に支えて往けるだけの費用を得たことだけは事実である。従って、彼女達は、村人の生活としては、驚くほど贅沢であって、食う物も、着る物も、山家には見られぬほどのもので、冬中は毎日遊び暮していた。これは旅に出る身とて、<ruby><rb>旅籠飯</rb><rp>(</rp><rt>はたごめし</rt><rp>)</rp></ruby>に馴れて口が驕り、衣服も華美を好むようになったためであろう。 | ||
併し、服装は華美でこそあれ、普通の女性と異ることなく、結髪も特種の習俗はなかった。巡業中は旅姿であるから、例の外法箱を紺の風呂敷で背負い(風呂敷は舟形に縫うを定めとす)、白い脚袢を穿き、下襦袢だけ下げて(中山曰。紀州田辺町地方では信濃巫女は、白湯文字を出して歩くので、俚称を白湯文字と云ったことは既述した)、上衣は裾高く括りあげて歩いた。呪術する時には、その裾を下すのを作法としたが、そのままで遣ることも、珍らしくはなかった。 | |||
ノノウは修業年限を終ると、毎月幾らと抱主に支払うべき金額(食料とか借金の返済分とかを含めて)が定まっていて、それ以外はノノウ個人の収入であった。又ノノウが独立して、抱主の家を離れようとするときには、一定の礼金を納めたようであるが、正確のことは判然しない。明治になってから呪術料は依頼者の心まかせで、一回五六銭から五十銭まで、外に白米五合から一升まであった〔四〕。 | ノノウは修業年限を終ると、毎月幾らと抱主に支払うべき金額(食料とか借金の返済分とかを含めて)が定まっていて、それ以外はノノウ個人の収入であった。又ノノウが独立して、抱主の家を離れようとするときには、一定の礼金を納めたようであるが、正確のことは判然しない。明治になってから呪術料は依頼者の心まかせで、一回五六銭から五十銭まで、外に白米五合から一升まであった〔四〕。 |