「日本巫女史/第二篇/第二章/第一節」を編集中
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修験道は、奈良朝において、役ノ小角が開いたものだと伝えられている〔一〕。私は小角が創めた当時の修験道が、如何なるものであったかは詳しく知らぬが、後世の是等の徒が好んで行うた呪術は、俗に「<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>ヨ</rt><rp>)</rp></ruby>り<ruby><rb>祈祷</rb><rp>(</rp><rt>キトウ</rt><rp>)</rp></ruby>」と称するものであって、一名の男女(又は子供)を、<ruby><rb>憑座</rb><rp>(</rp><rt>ヨリマシ</rt><rp>)</rp></ruby>(<ruby><rb>仲座</rb><rp>(</rp><rt>ナカザ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>御幣持</rb><rp>(</rp><rt>ゴヘイモチ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>尸童</rb><rp>(</rp><rt>ヨリワラ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>乗童</rb><rp>(</rp><rt>ノリワラ</rt><rp>)</rp></ruby>、おこうさま、一ツ<ruby><rb>者</rb><rp>(</rp><rt>モノ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>護法実</rb><rp>(</rp><rt>ゴホウダネ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>護法付</rb><rp>(</rp><rt>ゴホウツキ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>護因坊</rb><rp>(</rp><rt>ゴインボウ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>古年童</rb><rp>(</rp><rt>コネンドウ</rt><rp>)</rp></ruby>などとも云う)と定め、これに神を祈り著けて、その者の口より、神の意として、善悪吉凶等を語らせる方法である。私はここに、修験者が行った憑り祈祷の二三の実例を挙げ、然る後に、此の呪法と、巫女のそれとの比較、及び関係に就いて、管見を述べる。ただ前以てお断りして置くことは、此の種の類例は、代々の文献にも非常に多く存しているので、到底ここには挙げきれず、又挙げる必要もないと信ずるゆえ、今は私が専攻している民俗学的の資料を、時代に拘らず載せたことである。「校正作陽誌」久米郡南分寺院部に、 | 修験道は、奈良朝において、役ノ小角が開いたものだと伝えられている〔一〕。私は小角が創めた当時の修験道が、如何なるものであったかは詳しく知らぬが、後世の是等の徒が好んで行うた呪術は、俗に「<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt>ヨ</rt><rp>)</rp></ruby>り<ruby><rb>祈祷</rb><rp>(</rp><rt>キトウ</rt><rp>)</rp></ruby>」と称するものであって、一名の男女(又は子供)を、<ruby><rb>憑座</rb><rp>(</rp><rt>ヨリマシ</rt><rp>)</rp></ruby>(<ruby><rb>仲座</rb><rp>(</rp><rt>ナカザ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>御幣持</rb><rp>(</rp><rt>ゴヘイモチ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>尸童</rb><rp>(</rp><rt>ヨリワラ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>乗童</rb><rp>(</rp><rt>ノリワラ</rt><rp>)</rp></ruby>、おこうさま、一ツ<ruby><rb>者</rb><rp>(</rp><rt>モノ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>護法実</rb><rp>(</rp><rt>ゴホウダネ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>護法付</rb><rp>(</rp><rt>ゴホウツキ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>護因坊</rb><rp>(</rp><rt>ゴインボウ</rt><rp>)</rp></ruby>、<ruby><rb>古年童</rb><rp>(</rp><rt>コネンドウ</rt><rp>)</rp></ruby>などとも云う)と定め、これに神を祈り著けて、その者の口より、神の意として、善悪吉凶等を語らせる方法である。私はここに、修験者が行った憑り祈祷の二三の実例を挙げ、然る後に、此の呪法と、巫女のそれとの比較、及び関係に就いて、管見を述べる。ただ前以てお断りして置くことは、此の種の類例は、代々の文献にも非常に多く存しているので、到底ここには挙げきれず、又挙げる必要もないと信ずるゆえ、今は私が専攻している民俗学的の資料を、時代に拘らず載せたことである。「校正作陽誌」久米郡南分寺院部に、 | ||
: 護法社、在岩間山本山寺(天台宗)域内、毎年七月七日行護法、祈其法撰素撲者、斎戒斎浄、諺謂之<u>護法実</u> | : 護法社、在岩間山本山寺(天台宗)域内、毎年七月七日行護法、祈其法撰素撲者、斎戒斎浄、諺謂之<u>護法実</u>、至七日、使居東堂之庭、満山衆徒盤境呪持、此人忽不狂躍、或咆吼忿嗔状如獣族、力扛大盤、若有穢濁之人、則捉而抛擲数十歩之外也、呪法既畢、則供護法水四桶、毎桶盛水一斗五升、其人尽呑了、後俄然仆地即復本敢莫労困、又不自知之耳、謂之墜護法也(以上摘要)。 | ||
此の護法実と称する人物が、呪持のために、力大盤を<ruby><rb>扛</rb><rp>(</rp><rt>あ</rt><rp>)</rp></ruby>げ、水六斗を呑み尽し、獣族の如くになって咆吼し、穢濁の者あるとき、捉えて数十歩の外に擲つとは、現今の科学から説明すれば、全く催眠状態の仕業であることが容易に知り得らるるのであるが、かかる知識を少しも有していなかった時代にあっては、ただ神秘のこと、不思議のことと信じ、恐れるより外に致し方がなかったのである。昭和の現代においても、真宗の糸引名号や、法華宗の御因縁様などが多数の信者を有している所から推すと、修験道が民間信仰の骨髄にまで浸み込み、護法実や山伏の威力は、私などが今日から想像する以上に更に猛烈であったに相違ない。而して其の旁証とも見るべき記事が、同じ「校正作陽誌」久米郡北分寺院部に載せてある。曰く | 此の護法実と称する人物が、呪持のために、力大盤を<ruby><rb>扛</rb><rp>(</rp><rt>あ</rt><rp>)</rp></ruby>げ、水六斗を呑み尽し、獣族の如くになって咆吼し、穢濁の者あるとき、捉えて数十歩の外に擲つとは、現今の科学から説明すれば、全く催眠状態の仕業であることが容易に知り得らるるのであるが、かかる知識を少しも有していなかった時代にあっては、ただ神秘のこと、不思議のことと信じ、恐れるより外に致し方がなかったのである。昭和の現代においても、真宗の糸引名号や、法華宗の御因縁様などが多数の信者を有している所から推すと、修験道が民間信仰の骨髄にまで浸み込み、護法実や山伏の威力は、私などが今日から想像する以上に更に猛烈であったに相違ない。而して其の旁証とも見るべき記事が、同じ「校正作陽誌」久米郡北分寺院部に載せてある。曰く |