日本巫女史/総論/第一章/第二節」を編集中

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巫女史とは、巫女の生活の歴史というに外ならぬが、併し此の文字を学術語として書名に用いたのは、恐らく本書が嚆矢であろうと信じている。巫女に関する従来の研究は、巫女だけを学問の対象として企てたものは極めて尠く、漸く神職の一員——それも極めて軽い意味の、最下級の神職、又は補助神職というほどの態度で取扱って来たので、従って巫女史と称するが如き独立した巫女の歴史は、未だ曾て何人にも試みられなかったのである。然るに、私の巫女に関する研究は、従来のそれとは全く趣を異にし、専ら巫女を中心として、他の神職なり、制度なりを取扱うというのである。ここに多少とも、従来の研究と相違する点が存し、独立した巫女史の内容が伴うものと考えているのである。
巫女史とは、巫女の生活の歴史というに外ならぬが、併し此の文字を学術語として書名に用いたのは、恐らく本書が嚆矢であろうと信じている。巫女に関する従来の研究は、巫女だけを学問の対象として企てたものは極めて尠く、漸く神職の一員——それも極めて軽い意味の、最下級の神職、又は補助神職というほどの態度で取扱って来たので、従って巫女史と称するが如き独立した巫女の歴史は、未だ曾て何人にも試みられなかったのである。然るに、私の巫女に関する研究は、従来のそれとは全く趣を異にし、専ら巫女を中心として、他の神職なり、制度なりを取扱うというのである。ここに多少とも、従来の研究と相違する点が存し、独立した巫女史の内容が伴うものと考えているのである。


我国にも、巫女に対して、覡男とも称すべき者があった。勿論、此の熟字は、支那のそれをそのまま採用したものではあるが、兎に角に女祝に対して男祝があったように、巫女に対して覡男の在ったことは事実であって、然も両者の関係は、頗る密接なるものであった。「梁塵秘抄」に『<ruby><rb>東</rb><rp>(</rp><rt>あづま</rt><rp>)</rp></ruby>には女はなきか男みこ、さればや神の男には<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt></rt><rp>)</rp></ruby>く』とあるように、巫女と男覡との交渉は、殆んど同視されるまでに、近いものがあって存した。併しながら、私の立場から言えば、巫女が本であって覡男は末である。巫女は正態であって、覡男は変態である。更に極言すれば、覡男は巫女を学んで、その代理を勤める者にしか過ぎぬのである。それ故に、私の此の巫女史からは、覡男は当然除外されべきものである。巫女に詳しくして、覡男に疎なるのも、要はこれが為めである。予め此の点を含んで置いてもらいたいのである。
我国にも、巫女に対して、覡男とも称すべき者があった。勿論、此の熟字は、支那のそれをそのまま採用したものではあるが、兎に角に女祝に対して男祝があったように、巫女に対して覡男の在ったことは事実であって、然も両者の関係は、頗る密接なるものであった。「梁塵秘抄」に『<ruby><rb>東</rb><rp>(</rp><rt>アヅマ</rt><rp>)</rp></ruby>には女はなきか男みこ、さればや神の男には<ruby><rb>憑</rb><rp>(</rp><rt></rt><rp>)</rp></ruby>く』とあるように、巫女と男覡との交渉は、殆んど同視されるまでに、近いものがあって存した。併しながら、私の立場から言えば、巫女が本であって覡男は末である。巫女は正態であって、覡男は変態である。更に極言すれば、覡男は巫女を学んで、その代理を勤める者にしか過ぎぬのである。それ故に、私の此の巫女史からは、覡男は当然除外されべきものである。巫女に詳しくして、覡男に疎なるのも、要はこれが為めである。予め此の点を含んで置いてもらいたいのである。


'''二 巫女史の内容と其範囲'''
'''二 巫女史の内容と其範囲'''
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巫女史が、巫女の生活の歴史である以上は、これに伴う全般の研究が内容として盛られなければならぬのは、改めて言うを俟たぬ。而して、その内容は、巫女の発生、巫女の種類、巫女の階級、巫女の用いた呪術の方法と、その種類、巫女の師承関係、巫女が呪術を営むより生ずる性格の転換、巫女と戦争、巫女と狩猟、巫女と農耕、巫女に限られた相続制度、及び巫女の社会的の地位等を重なる問題とし、更にこれ等に伴う幾多の問題を出来るだけ網羅して、これを各時代における信仰の消長、政治の隆替、経済の起伏、及び社会事情の推移等を基調として、その変遷を討尋するのであるから、頗る複雑を極めているのである。
巫女史が、巫女の生活の歴史である以上は、これに伴う全般の研究が内容として盛られなければならぬのは、改めて言うを俟たぬ。而して、その内容は、巫女の発生、巫女の種類、巫女の階級、巫女の用いた呪術の方法と、その種類、巫女の師承関係、巫女が呪術を営むより生ずる性格の転換、巫女と戦争、巫女と狩猟、巫女と農耕、巫女に限られた相続制度、及び巫女の社会的の地位等を重なる問題とし、更にこれ等に伴う幾多の問題を出来るだけ網羅して、これを各時代における信仰の消長、政治の隆替、経済の起伏、及び社会事情の推移等を基調として、その変遷を討尋するのであるから、頗る複雑を極めているのである。


而して単に巫女が用いた呪術だけにあっても、我国固有のものに、支那の巫蠱の邪法が加り、仏教の加持祈祷の修法と習合し、猶お我国において発達した修験道の呪法が交るなど、実に雑糅紛更の限りを尽している。加之、更にこれを民族学的に見るときは、我国固有の呪術と、東部アジヤに行われたシャーマン教との交渉、アイヌ民族の残したツスとの関係など、弥が上にも錯綜しているのである。然もそれ等の一々に就いて、克明に発達変遷の跡を尋ねて新古を弁え、固有と外来とを識別するのであるから、その研究はかなり困難なるものではあるが、その困難が直ちに巫女史の内容であると考えるので、そこに巫女史が学問として相当の価値を認められるのである。
而して単に巫女が用いた呪術だけにあっても、我国固有のものに、支那の巫蠱の邪法が加り、仏教の加持祈祷の修法と習合し、猶お我国において発達した修験道の呪法が交るなど、実に雑糅紛更の限りを盡している。加之、更にこれを民族学的に見るときは、我国固有の呪術と、東部アジヤに行われたシャーマン教との交渉、アイヌ民族の残したツスとの関係など、彌が上にも錯綜しているのである。然もそれ等の一々に就いて、克明に発達変遷の跡を尋ねて新古を辨え、固有と外来とを識別するのであるから、その研究はかなり困難なるものではあるが、その困難が直ちに巫女史の内容であると考えるので、そこに巫女史が学問として相当の価値を認められるのである。


巫女史と他の学問との関係に就いては記述すべき範囲が広いので、混雑を防ぐ為に各項目の下に略記する。
巫女史と他の学問との関係に就いては記述すべき範囲が広いので、混雑を防ぐ為に各項目の下に略記する。
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'''三 巫女史と政治史との関係'''
'''三 巫女史と政治史との関係'''


我国に関する最古の文献である魏志(巻三〇)の「倭人伝」によれば、倭国の主権者であった<ruby><rb>卑弥呼</rb><rp>(</rp><rt>ヒミコ</rt><rp>)</rp></ruby>なる者は『克事鬼神惑衆』ところの巫女に外ならぬのである。此の点から言えば、倭国の原始文化は、巫女によって代表され、呪術に精通したものが、一国の支配者としての、機能を有していたのであって、即ちフレザー氏の<ruby><rb>帝王の魔術的起原</rb><rp>(</rp><rt>マジカル・オリジン・オブ・キングス</rt><rp>)</rp></ruby>の学説を事実において証明しているのである。而して、斯くの如き事象は、独り倭国ばかりでなく、我が内地にあっても、又明確に認められるのである。国語の政治を言える「まつりごと」が、祭事から出発している事を知るとき、古く我国が祭政一致であったことを覚ると同時に、巫女が政治の中心勢力者であったことを併せ考えねばならぬ。何となれば、我国で「まつりごと」の国語を生んだ時代にあっては、巫女それ自身が直ちに神であり、且つ巫女の最高者が主権者であったからである。
我国に関する最古の文献である魏志(巻三〇)の「倭人伝」によれば、倭国の主権者であった<ruby><rb>卑弥呼</rb><rp>(</rp><rt>ヒミコ</rt><rp>)</rp></ruby>なる者は『克事鬼神惑衆』ところの巫女に外ならぬのである。此の点から言えば、倭国の原始文化は、巫女によって代表され、呪術に精通したものが、一国の支配者としての、機能を有していたのであって、即ちフレザー氏の<ruby><rb>帝王の魔術的起原</rb><rp>(</rp><rt>マジカル・オリジン・オブ・キングス</rt><rp>)</rp></ruby>の学説を事実において証明しているのである。而して、斯くの如き事象は、独り我国ばかりでなく、我が内地にあっても、又明確に認められるのである。国語の政治を言える「まつりごと」が、祭事から出発している事を知るとき、古く我国が祭政一致であったことを覚ると同時に、巫女が政治の中心勢力者であったことを併せ考えねばならぬ。何となれば、我国で「まつりごと」の国語を生んだ時代にあっては、巫女それ自身が直ちに神であり、且つ巫女の最高者が主権者であったからである。


巫女史の立場から言えば、神璽と共殿同床した時代までは、巫女が政治の中心であったと考えることが出来るのである。然るに、政治と祭祀とが分離し、神を祭る者と民を治める者との区別が国法的に定められ、神それ自身であった巫女が一段と退化して、即ち<ruby><rb>神子</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>(神の子の意)として、神と人との間に介在するようになっても、猶お神託は、往往にして政治を動かす勢力を有していた。これ等に就いては、各時代において、例証を挙げて、詳記する考えであるが、巫女史と政治史との関係は、決して浅少なるものではないのである。
巫女史の立場から言えば、神璽と共殿同床した時代までは、巫女が政治の中心であったと考えることが出来るのである。然るに、政治と祭祀とが分離し、神を祭る者と民を治める者との区別が国法的に定められ、神それ自身であった巫女が一段と退化して、即ち<ruby><rb>神子</rb><rp>(</rp><rt>ミコ</rt><rp>)</rp></ruby>(神の子の意)として、神と人との間に介在するようになっても、猶お神託は、往往にして政治を動かす勢力を有していた。これ等に就いては、各時代において、例証を挙げて、詳記する考えであるが、巫女史と政治史との関係は、決して浅少なるものではないのである。
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'''五 巫女史と呪術史との関係'''
'''五 巫女史と呪術史との関係'''


巫女の聖職は呪術を行うことに重大の使命が存していた。併しながら、巫女の行うた呪術は、我国における呪術の全体ではなくして、僅にその一部分にしか過ぎぬのである。呪術史の観点に起って、古代の祭祀を検討すれば、その機構をなしている重たる部分は、全く呪術の集成である。従って、神事の宗源と言われた天児屋命及び太玉命は、公的の大呪術師とも考えられるのである。鹿の肩骨を灼いて太占を行うことも、更にこれが亀卜に代っても、その信仰の基調は呪術である。祝詞を発生的に考覈すれば、これの内容に、呪術の思想が濃厚に含まれていたことが、看取される。諾尊が黄泉軍を郤けるとき桃ノ実を投じたのも、神武帝が天ノ香山の土を採って平瓮を造られたのも、共に呪術の一種であると言うことが出来るのである。而して、国民の生活は、その悉くが殆ど呪術的であって、火を鑚るにも、水を汲むにも、更に誇張して言えば、寝るにも起きるにも、食うにも衣るにも、呪術の観念を疎外することは出来なかったのである。科学を知らなかった古代にあっては、呪術が生活の根蔕をなしていたのである。
巫女の聖職は呪術を行うことに重大の使命が存していた。併しながら、巫女の行うた呪術は、我国における呪術の全体ではなくして、僅にその一部分にしか過ぎぬのである。呪術史の観点に起って、古代の祭祀を検討すれば、その機構をなしている重たる部分は、全く呪術の集成である。従って、神事の宗源と言われた天兒屋命及び太玉命は、公的の大呪術師とも考えられるのである。鹿の肩骨を灼いて太占を行うことも、更にこれが亀卜に代っても、その信仰の基調は呪術である。祝詞を発生的に考覈すれば、これの内容に、呪術の思想が濃厚に含まれていたことが、看取される。諾尊が黄泉軍を郤けるとき桃ノ実を投じたのも、神武帝が天ノ香山の土を採って平瓮を造られたのも、共に呪術の一種であると言うことが出来るのである。而して、国民の生活は、その悉くが殆ど呪術的であって、火を鑚るにも、水を汲むにも、更に誇張して言えば、寝るにも起きるにも、食うにも衣るにも、呪術の観念を疎外することは出来なかったのである。科学を知らなかった古代にあっては、呪術が生活の根蔕をなしていたのである。


然るに、巫女の行うた呪術は、これ等の多種多様の呪術より見れば、実にその一端にしか過ぎぬものであって、然もそれが後世になるほど、呪術の範囲が局限され、漸くその面影をとどめるという有様であった。それ故に、我国にも、欧米の心理学者、又は宗教学者が論ずるが如き、幾多の呪術の種類、及び呪術と宗教との交渉なども在って存するのであるが、これ等は一般の呪術史に関する問題であって、巫女史はこれに<ruby><rb>与</rb><rp>(</rp><rt>あずか</rt><rp>)</rp></ruby>ることが尠いので、本書は出来るだけ此の種の問題には触れぬこととした。
然るに、巫女の行うた呪術は、これ等の多種多様の呪術より見れば、実にその一端にしか過ぎぬものであって、然もそれが後世になるほど、呪術の範囲が局限され、漸くその面影をとどめるという有様であった。それ故に、我国にも、欧米の心理学者、又は宗教学者が論ずるが如き、幾多の呪術の種類、及び呪術と宗教との交渉なども在って存するのであるが、これ等は一般の呪術史に関する問題であって、巫女史はこれに<ruby><rb>与</rb><rp>(</rp><rt>あずか</rt><rp>)</rp></ruby>ることが尠いので、本書は出来るだけ此の種の問題には触れぬこととした。
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巫女の始めは神その者であった。従って、神が意のあるところを人に告げるには、その時代としては、出来るだけ荘厳にして、華麗なる口語を以てしたに相違ない。我国の<ruby><rb>祝詞</rb><rp>(</rp><rt>ノリト</rt><rp>)</rp></ruby>や、<ruby><rb>寿詞</rb><rp>(</rp><rt>ヨゴト</rt><rp>)</rp></ruby>は、ここに出発したのである。従って我国の叙事詩が、古きものほど一人称になっているのは、巫女が神として述べたことに出発しているためである。然るに、神の内容が変化し、巫女は神の子として、その託宣を取次ぐようになれば、巫女は神を降ろし、神を遊ばせ、神を<ruby><rb>和</rb><rp>(</rp><rt>なご</rt><rp>)</rp></ruby>め、神を慰め、神を帰すなどの呪文を発明すべき必要があった。而して此の呪文は、古きに溯るほど、律語を以て唱えられるのが常であって、我国の歌謡は、かくして一段の発達を致したのである。巫女が唱えた是等の律語が、如何なるものであって、然もこれ等の律語と歌謡との関係、及び律語が歌謡化され、更に説話化されて、各地に分布された過程に就いては、本文に詳記する機会を保留するが、兎に角に、我国の文学史は、巫女の呪文によって、スタートが切られているのである。
巫女の始めは神その者であった。従って、神が意のあるところを人に告げるには、その時代としては、出来るだけ荘厳にして、華麗なる口語を以てしたに相違ない。我国の<ruby><rb>祝詞</rb><rp>(</rp><rt>ノリト</rt><rp>)</rp></ruby>や、<ruby><rb>寿詞</rb><rp>(</rp><rt>ヨゴト</rt><rp>)</rp></ruby>は、ここに出発したのである。従って我国の叙事詩が、古きものほど一人称になっているのは、巫女が神として述べたことに出発しているためである。然るに、神の内容が変化し、巫女は神の子として、その託宣を取次ぐようになれば、巫女は神を降ろし、神を遊ばせ、神を<ruby><rb>和</rb><rp>(</rp><rt>なご</rt><rp>)</rp></ruby>め、神を慰め、神を帰すなどの呪文を発明すべき必要があった。而して此の呪文は、古きに溯るほど、律語を以て唱えられるのが常であって、我国の歌謡は、かくして一段の発達を致したのである。巫女が唱えた是等の律語が、如何なるものであって、然もこれ等の律語と歌謡との関係、及び律語が歌謡化され、更に説話化されて、各地に分布された過程に就いては、本文に詳記する機会を保留するが、兎に角に、我国の文学史は、巫女の呪文によって、スタートが切られているのである。


此の機会に、併せ言うべきことは、巫女史と舞踊史との関係である。我国の舞踊史は、その第一ページが巫女の祖先神と称せらるる天鈿女命によって飾られているのである。鈿女命の天ノ磐戸前における<ruby><rb>神憑</rb><rp>(</rp><rt>カムガカ</rt><rp>)</rp></ruby>りの状態が、跳躍教とまで言われるシャーマニズムのそれと、如何なる点まで民族学的に共通性を帯びているか否か、更に此の種の神憑りの状態を以て、直ちに舞踊と云うことが出来るか否か、更に我国の舞踊の起原が、性的行為の誇張化から出発しているか否かは、本文に詳述するとしても、巫女と舞踊とは、決して無関係であったとは言えぬのである。巫女と音楽の関係も又そうであって、我国の古代における楽器は、概して巫女が神を降し、神を和める折に用いたものであって、然もこれによって相当の発達を遂げたのである。猶お是等に就いても、段々と記述する考えである。
此の機会に、併せ言うべきことは、巫女史と舞踊史との関係である。我国の舞踊史は、その第一ペーヂが巫女の祖先神と称せらるる天鈿女命によって飾られているのである。鈿女命の天ノ磐戸前における<ruby><rb>神憑</rb><rp>(</rp><rt>カムカガ</rt><rp>)</rp></ruby>りの状態が、跳躍教とまで言われるシャーマニズムのそれと、如何なる点まで民族学的に共通性を帯びているか否か、更に此の種の神憑りの状態を以て、直ちに舞踊と云うことが出来るか否か、更に我国の舞踊の起原が、性的行為の誇張化から出発しているか否かは、本文に詳述するとしても、巫女と舞踊とは、決して無関係であったとは言えぬのである。巫女と音楽の関係も又そうであって、我国の古代における楽器は、概して巫女が神を降し、神を和める折に用いたものであって、然もこれによって相当の発達を遂げたのである。猶お是等に就いても、段々と記述する考えである。


'''七 巫女史と経済史との関係'''
'''七 巫女史と経済史との関係'''
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我国には、人が人を裁く以前に、人が神の名に由って、人を裁いた時代があった。即ち神判なるものがこれであって、然もこれを行うたものは巫女である。
我国には、人が人を裁く以前に、人が神の名に由って、人を裁いた時代があった。即ち神判なるものがこれであって、然もこれを行うたものは巫女である。


濡れ衣といえば、現在では冤罪の意に解釈されているが、これは我が古代において、嫌疑者に濡れたる衣を着せ、その水の乾くことの遅速を以て、罪の有無を判じた事実に出発しているのである。更に神水を飲ませて罪を按じ、鉄火を握らせ、<ruby><rb>探湯</rb><rp>(</rp><rt>クガタチ</rt><rp>)</rp></ruby>をなさしめ、蛇に咬ませ、起誓の失を判じさせる等の、神判を掌っていた者は巫女であった。江戸期の初葉まで行われていた、神文の鐘を撞くという裁きも、その始めは巫女がこれを主宰していたのである。素尊が天津罪を犯した折に、諸神が神<ruby><rb>議</rb><rp>(</rp><rt>はか</rt><rp>)</rp></ruby>りに議りて、鬚を切り、爪を切り、千座の置座を負せて、神<ruby><rb>逐</rb><rp>(</rp><rt>はら</rt><rp>)</rp></ruby>い逐い給うたとあるのも、所詮は巫女が神意を問うての結果と見るべきである。こう考えて来ると、我国の法制史と巫女との交渉は、決して浅いものでは無いのである。
濡れ衣といえば、現在では冤罪の意に解釈されているが、これは我が古代において、嫌疑者に濡れたる衣を着せ、その水の乾くことの遅速を以て、罪の有無を判じた事実に出発しているのである。更に神水を飲ませて罪を按じ、鉄火を握らせ、<ruby><rb>探湯</rb><rp>(</rp><rt>クガタチ</rt><rp>)</rp></ruby>をなさしめ、蛇に咬ませ、起誓の失を判じさせる等の、神判を掌っていた者は巫女であった。江戸期の初葉まで行われていた、神文の鐘を撞くという裁きも、その始めは巫女がこれを主宰していたのである。素尊が天津罪を犯した折に、諸神が神<ruby><rb>議</rb><rp>(</rp><rt>ハカ</rt><rp>)</rp></ruby>りに議りて、鬚を切り、爪を切り、千座の置座を負せて、神<ruby><rb>逐</rb><rp>(</rp><rt>ハラ</rt><rp>)</rp></ruby>い逐い給うたとあるのも、所詮は巫女が神意を問うての結果と見るべきである。こう考えて来ると、我国の法制史と巫女との交渉は、決して浅いものでは無いのである。


猶お、巫女史は、此の外にも、原始神道史や、民間信仰史にも、深甚なる交渉を有していることは言うまでもないが、これ等に就いては本文中に詳記する機会があるので、今は省略する。
猶お、巫女史は、此の外にも、原始神道史や、民間信仰史にも、深甚なる交渉を有していることは言うまでもないが、これ等に就いては 本文中に詳記する機会があるので、今は省略する。


[[Category:中山太郎]]
[[Category:中山太郎]]
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